2012年4月14日土曜日

クマのプーさん


                                                             
  
                         
クマのプーさん

     世界で一番有名になったクマ

  そうら、クマくんが、二階からおりてきますよ。
バタン・バタン、バタン・バタン、頭を階段にぶつけながら  クリストファー・ロビンのあとについてね。 二階からおりてくるのにクマくんは、こんなおりかたっきり知らないのです。…

だれもが知っている『クマのプーさん』の始まりです。      (A. A.ミルン作、石井桃子訳、岩波書店)
    
            (岩波書店版)                       

 E. H. シェパードの描いた挿し絵がまた素晴らしくて、クリストファー・ロビンが右手で階段の手すりにさわって、左手で縫いぐるみのクマの手を引っ張ってバタンバタンと降りてくる絵を見ると、私の膝でお話を読んで もらっていた幼い娘たちは、たちまちクマのプーさんの世界に誘いこまれていったものでした

 イギリスの風刺雑誌『パンチ』の編集をしたり、劇作家としても著名だったミルンは一人息子のクリストファー・ロビンに語りかけるという形で2冊の小さな本を残しました『クマのプーさん』と『プー横丁にたった家』とです。どちらも10編のみじかいお話ですが、この2冊を残したことによってミルンの名は、挿し絵を描いたシェパードとのコンビで、児童文学の歴史に長く残るものとなりました。

 ロンドン生 まれのミルン(1882‐1956)は、数学を専攻してケンブリッジ大学を卒業しましたが、文筆家になろうという決心は変わらなかったそうです。風刺雑誌として有名な『パンチ』に諷刺詩を書き、劇作家としても有名になったミルンが、作家としての才能を児童文学の世界に向けたのも、クリストファー・ロビンが生まれ育った時期とピッタリ合っています。

 1920年(大正9年)にクリストファー・ロビンが生まれ、父親のミルンは身近に育つ子供のかわいらしさと動きをよく見ていたのでしょう。子供の夢や遊びを題材にした44編の詩をまとめて『クリストファー・ロビンのうた』(原題When We Were Very Young)という詩集を出しました。子供が4歳のときで、当時たいへん評判になりました。
 この詩集のなかに、「テディ・ベア」(縫いぐるみのクマ)という少し長い詩があります。

     くまはどんなにがんばっても
  うんどうぶそくでふとるんだ
  うちのくまくんが コロコロと
  ふとっているのもふしぎじゃない……
                     (小田島雄志、小田島若子訳、岩波書店刊)

 クリストファー・ロビンは1歳の誕生日に、お母さんからクマの縫いぐるみをもらって「エドワード」と名づけて遊んでいたそうですから、クマのプーさんがイギリスの子供たちにお目見えしたのはこの詩が最初だったわけです。クマはふわふわとした毛皮を着ていますから、いつもふとって見えるのでしょうか。
 
       ロンドン動物園での出会い

 クリストファー・ロビンが5歳のときに、両親に連れられて初めてロンドン動物園に行きました。そしてそこでクマの「ウイニー」に出会ったのです。すっかり仲良しになった彼は、自分の縫いぐるみのクマに「ウイニー・ザ・プー」(Winnie‐the‐Pooh) と名づけてしまいました。ウイニーはもちろん 動物園の本当のクマの名前から、プーはミルン一家が休暇を過ごしたロンドン郊外の湖にいた白鳥の名前からとったものです。
 子供の好きな縫いぐるみの動物たちと自分の息子クリストファー・ロビンを主人公にして、ミルンはイギリスの田舎の森を舞台に、楽しい冒険と魔法の世界を創りだしました。
 初めのうちは、クリストファー・ロビンとプー、それにコブタが主役でしたが、次第に、いつも世の中をすねて生きているようなロバのイーヨー、高いところから森全体を見渡しているフクロウ「フクロ」、少し学問のあるウサギとその一族郎党たち、はねっかえりやのトラの子「トラー」、そして突然森に現れたカンガルー「カンガ」とその子供の「ルー」が加わります。
 プーのお話は、お説教はないし、イギリスの� ��供たちにはなじみのある森と野原の田園生活を描いていますが、大人にも楽しくて、考えさせられるものがあります。
 7番目のお話に出てきますが、カンガルー親子の突然の登場は、森の動物たちをびっくりさせてしまいました。たしかにカンガルーはイギリスからは一番遠い国、オーストラリアにしかいませんので、森の仲間たちにとってはまさに異文化との遭遇というわけです。そこで、さっそく仲間たちはカンガルー親子を森から追い出しにかかります。
 母親のカンガの目を盗んで、子供のルーをさらって隠してしまい、おなかの袋の中には身代わりのコブタが入ってびっくりさせようというわけです。でも結局はルーは連れていかれた家のウサギたちと仲良く遊んでしまい、プーはカンガに上手なジャンプのしかたを� ��わるという具合に、いつのまにかカンガルー親子を森の暮らしに受け入れて仲間にしてしまいます。
 子供の世界には人種的(?)偏見などはありませんでした。
 
 プーの話が子供たちから大歓迎されたので、2年後の1928年に第二作の『プー横丁にたった家』(原題 The House at Pooh Corner )が出ました。これも10編の短いお話でできています。そして最後の話では、クリストファー・ロビンとプーが、仲間と森にサヨナラを言って、魔法の丘に行ってしまいます。クリストファー・ロビンが学校に入るということがお話の伏線になっています。

       日本にも来た「プーさん」


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 プーさんの話は世界中の子供たちに愛されてきて、今では31か国語に翻訳されているそうです。日本では幸いなことに石井桃子さんの名訳で紹介されました。

『クマのプーさん』は1926年にロンドンで出版されたのですが、1940年(昭和15年)には日本で翻訳が出ました。1940年というと太平洋戦争の始まる1年前のことです。日本軍が侵攻した中国大陸での戦争は膠着状態になっていて、ドイツ・イタリアと組んだ日本は、イギリス・アメリカをはじめ世界中の国を敵に回すことになりました。
 音楽や文学の世界でも、ドイツのものはいいが、英米のものは敵性だとして排斥されていました。メンデルスゾーンの音楽は、ユダヤ人だからダメと� �う有様でした。物資不足で用紙も不自由になり、出版は検閲されていた時代です。そんなときにイギリス人の書いた『クマのプーさん』と『プー横丁にたった家』が出版されたことは奇跡としか思えません。 
 石井桃子さんご自身も、「しかし、なぜその原稿がそのとき日本で本になり得たのか、今でもふしぎに思う。何しろ、時世は日本軍が中国の奥地にまで侵攻し、戦争のため不要不急の本には、紙の配給が出なかった頃の話なのである」と書いておられます。 (朝日新聞。1998年10月23日)
                        
 私は、この戦争中に出たプーさんの本を、今も大事に持っています。さすがに60年近くたっているので、背表紙は傷んでしまいましたが。     (左は初版本、右は最近� �た愛蔵版)    
 戦争でほとんどの男性は軍隊に動員されてしまい、労働力の不足を補うために、学生は学業を中断して工場や農村で働くくことになりました。中学4年生の私のクラスは、東京の下町の東京湾沿いにあった上陸用舟艇を 作る工場で働いたのです。
 工場に通う薄暗い電車の中で、私はプーさんを繰り返し繰り返し読んだものです。食べるものも、読む本も不自由で、ほかに何の楽しみもなかった時代に、この本が唯一の救いのようでした。 
          
   シェパードとのコンビによるプーさんは、各国の子供たちに愛されましたが、日本でも歓迎されたのは、石井桃子さんの翻訳がまた素晴らしくて、子供たちになじんだ日本語に移し替えられていたからだと思います。
 もともと英語で書かれた本ですから、英語の子供言葉もあるし、わざと舌足らずの文章も出てきます。大人から見れば論理がつながらないようなところも多くあります、でも私たちの子供もそんな話し方をしていませんか。

 ある日ウサギがクリストファー・ロビンの家を訪ねると、小さな張り紙がありました。 こう書いてあります。

              がいしつ
            すぎかえる
               いすがし
            すぎかえる 

 さあ、ウサギはさっそく物知りの森のフクロに見せに行きます。フクロの説明はこうです。
 ウサギさん。クリストファー・ロビンはスギカエルといっしょに外出されたのですよ。…最近、あなたは森のどこかでスギカエルをお見かけにはならなかったかな?」
 この張り紙の英文はこう書かれています。

           GON  OUT     (GONE  OUT)
           BACKSON      (BACK  SOON)
             BISY            (BUSY) 
             BACKSON      (BACK  SOON)

 もちろん、私が書き加えた括弧の中が正しい言葉だとすぐ分かりますが、フクロが続けて物知り顔で「BACKSON は草食性の動物だよ」と説明します。そこで石井桃子さんは「スギカエル」と、カエルを連想させる言葉を選ばれたのでしょう。
 こういった工夫がたくさんあって、英語と日本語を並べて読み比べてみた私は、すっかり感心してしまいました。

 もうひとつ日本の童話とは違う面があります。それはプーさんがなにかというと詩を作り唄をうたうことです。ざっとこんな調子です。

 プーがハチミツを取りに、風船につかまって雲のふりをしてハチの巣のそばに飛んでいくときの話ですが、

    How sweet to be a Cloud    青空に浮かぶ 
    Floating in the Blue       雲はたのし!
    Every little cloud      ちいさい雲は
    Always sings aloud.        いつもうたう

    How sweet to be a Cloud      青空にうかぶ
    Floating in the Blue      雲はたのし!
    It makes him very proud    ちいさい雲は
    to be a little cloud.      とてもとくいだ


どのように適切に馬に鞍をフィットしない

 イギリスには「マザー・グースの唄」と呼ばれる、昔から伝わるたくさんの童謡があります。日本にも既に大正時代に、竹久夢二や北原白秋によって紹介されて、現在も新しい翻訳が出ています。
 「マザー・グース」には、ユーモラスな内容、なぞなぞ、言葉の韻律の面白さなどがありますが、詩ですからどれも韻(ライム、Rhyme )をふんでいます。この韻律を生かしながら日本語に移し替えるのは非常に難しいことです。
 ヨーロッパの子供たちは、字も読めない小さいときから、耳から入ってくる言葉の響きやリズムの面白さを自然に体得していったのでしょう。
 クマのプーさんは、うれしいことがあったり、ちょっと得意になったりすると、すぐに歌が出てくるのですが、このことについてはプーは、こう言っています。
 「しかし、やさしいことじゃないんだ。 詩とか歌とかってものは、こっちでつかむものじゃなくて、むこうでこっちをつかむものなんだ。だから、ぼくらは、むこうでこっちを見つけてくれるところへ出かけるくらいのことっきり、できやしないんだ」   
     『イーヨーがクフロ荘を見つけて、フクロがそこ� �ひっこすお話』

 これがミルンの詩についての考え方でした

       有名になりすぎた子供とプーさん 

 4年間の間に2冊のプーのお話と2冊の子供ための詩集を出して、どれも大評判になりましたが、クリストファー・ロビンが8歳になった年を最後に、ミルンはもう子供の話を書こうとはしませんでした。
 ミルンは『自伝』の中で、あるエピソードを書いています。
 「ある日、ダフネ(妻)が子ども部屋に上がっていきますと、いつも光彩を放っていた食卓の上の人形のプーの姿が、見えませんでした。ダフネが「プーはどこにいるの」ときいてみると、『長椅子のうしろだよ』というそっけない返事が、その所有者から返ってきました。『下の方を見てごらん。プーは「� ��リストファー・ロビンのうた」(詩集)が好きじゃないんだ』。 
      (ミルン自伝。原昌、梅沢時子訳。研究社)

 詩集や本のなかでモデルとなったクリストファー・ロビンも、また悩みを持っていました。1974年に彼は『熊のプーさんと魔法の森』(石井桃子訳、岩波書店。原題The Enchanted Places )という題名の自伝を出していますが、その中で彼は「有名になった子供」としての悩みと、父と子の関係について次のように述べています。
 「作家には二通りの作家がある。事実を語る作家と、クリエイティブな作家と。一方は、自分の経験によって書き、他方は、自分の夢を描く。私の父はクリエイティブな作家であった。そこで、彼の心が欲したように、小さな息子と遊べなかったという、まさにそのことから、彼は他の方向に満足を見いだしたのである。彼は、自分自身について書いた。」
 あまりにも有名になったクリストファー・ロビンとプーは、物見高い人々の好奇の目から逃れることはできませんでした。アメリカ人の観光客がクリストファー・ロビンの周りをうろうろして写真を撮りまくる。どこに行っても「 あの子がプーさんのクリストファー・ロビンよ」ということでは、幼い子供によいはずはありません。 無責任な読者は、本の中のクリストファー・ロビンと実際のクリストファー・ロビンは全く違うのだと分かっていても、すぐにまた混同してしまいます。ミルンが筆を断ってしっまたのも理解できることです。

       カナダから海を渡ったウイニー

 クリストファー・ロビンが5歳のときに初めてロンドン動物園に行き、ウイニーというクマを好きになったと書きましたが、実はこのウイニーはカナダからはるばる大西洋を渡ってきたものなのです。
 イギリス生まれのハリー・コールバーンが、カナダに移住して獣医学校に入って、やがて東西に長く広がるカナダのほぼ中央部、マニトバ州の農� ��省に勤めました。 
 1914年に第一次世界大戦が勃発しました。8月4日にイギリスがドイツに対して宣戦布告をすると、カナダもすぐ参戦しました。コールバーンは直ちに兵役を志願し、獣医の中尉としてマニトバ州の州都ウイニペッグの軍隊に入りました
     この部隊はイギリスに向かうべく軍用列車で大西洋岸の港を目指します。途中、五大湖のひとつのスペリオル湖近くのホワイト・リバーの駅で列車は一休みしました。
 田舎の駅のプラットフォームに降り立って、駅近くを散歩して長旅の疲れをいやしていたコールバーンは、かわいい仔グマをつれた猟師に出会います。母親は撃たれてしまい、孤児になってしまったメスの仔グマでした。
 獣医であり動物好きだったコールバーンは、このクマを20ドルで買い取って、列車に戻りました。
 列車の中でも、イギリスに向かう輸送船の中でも、ウイニーと名づけられた子グマはすぐに部隊の人気者になって、イギリスに到着してもペットとしてかわいがられました。コールバーンのテントで暮らして、彼のベッドの� ��で寝ていたそうです。当時の軍隊では、小動物をペットとして連れ歩くのはよくあることだったそうです。

 やがて戦争が激しくなり、同じ年の12月にはコールバーンの部隊がフランス戦線に向かうことになりました。さすがにクマを前線に連れていくわけにはいきません。コールバーンはウイニーにとって一番いい場所、ロンドン動物園に預けることにしました。
 そのころ動物園にはカナダ軍の部隊から寄付された数匹のクマがいたのですが、ウイニーはすぐ人に馴れて、お行儀が一番よかったそうです。


なぜ子犬は他の犬に怯えている

 もう気がつかれたでしょうが、「ウイニー」という名前は、コールバーンの所属した部隊の所在地、ウイニペッグ市(Winnipeg)から付けられたもので、メスでしたのでウイニーと女性形になっています。(プーさんのお話の中では、ウイニーはオスのクマになっています) なお、このウイニペッグの名前は、市の北にある湖「ウイニピ」(Win-Nipi )からきたもので、クリー族インディアンの言葉で「濁った水」という意味だそうです。
 1918年11月に戦争が終わり、ヨーロッパ各地を転戦していたコールバーンは、無事にロンドンに戻りました。もちろんコールバーンはウイニーをカナダに連れて帰るつもりでしたが、動物園に行ってみて、たくさんの子供たちの人気者になっているウイニーを見ると、自分の考えを変えてウイニーをロンドン動物園に寄付することにしました。
 ウイニーの仕草の中でびっくりさせられるのは、その記憶力の良さでした。動物園を訪れる人の中になじみの顔を見つけると、うれしそうに寄ってきて、横腹をその人の足になすりつけて、「こんにちは」とでもいうように挨拶をします。仲良しになったクリストファー・ロビンも、このウイニーの挨拶を喜んだ一人でした。
 動物園で子供たちの人気者になったウイニーは1934年に、その生涯を終えます、20歳でした。

       ディズニーの人気者になったプー

 クマのプーさんが世界じゅうの子供たちと仲良しになったもう一つの理由は、ウオルト・ディズニー(Walt Disney,  1901‐1966)との出会いがありました。ミッキー・マウスやドナルド・ダックを生み出したあの巨大なディズニー・プロダクションが、プーを自分たちのパターンに入れ直して、売り出したのです。
 ディズニー自身は以前からプーさんの話が好きだったそうです。自分の子供たちにもよく読んであげたりしました。そして、やがてクリストファー・ロビンとその仲間たちのお話を、北アメリカの映画ファンに見せようと、版権を買い取って、短いプーのシリーズ物に作り直しました。
 最初の短編映画『ウイニー・ザ・プーとハチミツの木』は爆発的な人気を得て、以後つぎつぎと企画を練っていきます。今やプーさんの住み家はフロリダ州のディズニー・ワールドになってしまったほどです。

 この子供たちの世界へのディ ズニーの進出については、功罪両面についての評価があります。 
 ウオルト・ディズニーを「今世紀におけるもっとも偉大な教育家」とたたえた文章が1965年に『ロサンゼルス・タイムズ』紙上に載りました。書いたのはカリフォルニア州教育長ラファティーです。
 これに対して、20年間、ニューヨーク公共図書館に勤務し、カリフォルニア大学で児童文学を講じてきたフランセス・セイヤーズが鋭い反論を寄せました。
 フランセスは、ディズニーを「教育者」扱いする「笑うべきめがね違い」を指摘して、ディズニーに対しては「子供の伝承文学の卑属化と創作作品の不遜な改ざん」の責任を追求しています。
 この対立した見解は、児童文学の読者の間にセンセーションを巻き起こし、活発な論争が続きました。
 フランセスは長い経験に基づいて、具体的な批判を展開しています。
 たとえば「ディズニーが一番大事に思っているのは、いかにして多くを売ることだ」と決めつけて、「読みやすいようにと再話される名作物語は間違っています。子供たちがその再話ものから得るのは、筋だけです。そして、筋というものは、すぐれた本の中では、一番重要でない要素なのです。再話というのは、まるで『リーダーズ・ダイジェスト』を読んでいるようなものです。」と手厳しく批判しました。
 絵とさし絵については、「ディズニー本のさし絵は、特定の一人の画家の作品ではなく、お抱えのスタッフが合成しています。合作では一人の画家が持っている一番大事なもの、その人のスタイル、信念が失われます。」と意見を述べています。
 しかし、フランセスは初期のディズニーの漫画映画『三匹のコブタ』などは独創的で楽しいもので、ユーモアの世界に多大の貢献をしたと評価しています。問題は昔話やすぐれた子供の本に関する扱い方にあるというのです。 
 確かにディズニーの製作と販売力によって、プーは世界のプーさんになりましたことも事実です。

 プーに関する本は実にたくさん出ています。インターネットで書籍の通信販売をやっているアメリカのアマゾン社のホームページを開いて、「ウイニー・ザ・プー」というキーワードで探すと、なんと346冊も画面に並びます。かなりのものがディズニーに関連するものですが、研究書もいろいろあります。ヨーロッパの歴代の哲学者の理論 ― プラトン、アリストテレスからデカルト、カント� �サルトルに至るまで ― が、すべてプーの物語に入っているという説の本さえあります。また、お料理の本もプーに関連づけて出版されています。
 キャラクター商品やいろいろなグッズも氾濫しています。人形、服の模様、マグカップ、なんでもあります。

       プーさんの像と記念切手 

 いま世界中にプーさんの物語を記念して四つの像が建っています。
 ウイニペッグにはコールバーンとウイニーの実物大のブロンズ像が、市の西部にあるアシニボイン公園内のウイニペッグ動物園にあります。
    ここに掲げた写真は市の観光局のご厚意でネガを送っていただいたものです。あとはロンドン動物園にこのレプリカともう一つプーのブロンズ像、そして、プーの生まれたホワイト・リバー(カナダ・オンタリオ州)にありますが、これはディズニー風のもののようです。
      (© TRAVEL MANITOBA)


 1996年10月は、国際切手月間でした。カナダではプーさんが選ばれて、4種類の記念切手が売り出されました                                                  
 左上は1914年にコールバーン中尉がホワイト・リバーでウイニーに出会い、ミルクを飲ませているところ, 右上は1925年にクリストファー・ロビンがロンドン動物園でウイニーと遊んでいる絵、そして左下はプーが森で仲間たちと遊ぶ姿、右下はフロリダのディズニー・ワールドでハチミツをなめているプー、の4種類です。最後の絵はディズニー風のプーさんになっています。
 どれも1枚45セントで、カナダではその当時は国内郵便は手紙も葉書も同じ料金で45セント、外国向けは2倍の90セントですから、日常よく使うものです。4種類が4枚ずつ16枚のセットを買えば、8ページの小さなプーのお話の本がついています。それもカナダはバイリンガルの国ですから、英語とフラン� �語とで書かれています。日本の記念切手もこういう親切な工夫があればいいのになと、私は思いました。

          オリジナルを読む楽しさ

 最近(1997年11月)、プーさんの2冊のお話と2冊の詩集をまとめて『クマのプーさん全集 ―おはなしと詩―』(岩波書店)が出ました。さし絵もカラーで美しく、432頁の立派な愛蔵版です。
 戦争中の翻訳とこの全集を比べてみると、古いかな遣いを直したり、縦書きが横書きになったり、単なる思い違いと思われる数字の単位の換算を訂正しているほかは、ほとんど変わっていません。
 60年前の翻訳を、基本的には何も変えずに現代の子供たちに提供できるということも、素晴らしいことではないでしょうか。
 英語のお好きな方は、原文をお読� ��になってはいかがですか。ペーパーバックのものなら数ドルで買えますし、外国旅行のときに本屋をのぞいてみれば、まずどこの本屋でも売っています。
 分かりにくいところは、ちょっと訳本をのぞいてみればいいのです。なるほど生きた英語とはこういうものかと感心させられます。
 フランセスが指摘したように、今は古典的な名作がどんどんコマギレにされてしまい、断片的なみじかいお話になって子供たちに与えられています。どぎつい描写やオーバーな表現が子どもの世界でも流行しています。「いかにして多くを売るか」が目標であることは、子どもの本の世界でも、残念ながら変わりはありません。
 でも、やはり長い生命を持ち続けてきて、たくさんの人々に愛されてきたお話は、何回読んでも深い味わい� �あって楽しいものです。小さい子供には父親や母親がひざに乗せて読んであげれば、それだけでもうれしいものでしょう。

 私はクマのプーさんを60年前に読み、娘たちが育った30年前に子供と一緒に読み、今度またこの文章を書くために読み直してみました。よい本を読む楽しさは、いくつになっても変わらないものでした。そのうち孫たちに、この森の仲間たちのお話を読んであげようと思っています。

 この章は、金属鉱山会・日本鉱業協会機関誌『鉱山』1999年2・3月号に掲載された)

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            ******************************************
 「プーさん」に登場するクマ「ウイニー」は、カナダ生まれで、第一次大戦でカナダ軍と一緒に大西洋を渡ってイギリスに行き、やがてロンドン動物園に飼われていた。そこでクリストファー・ロビンと出会ったことは文中に書きました。
 このウイニーの物語が2時間の映画にまとめられて、2004年12月にカナダのCBC (Canadian Broadcasting Corporation;  カナダ放送協会:カナダの国営放送です)で放映されました。
 約2時間の長編で、「プーさん」としてではなく「ウイニー」として描かれています。
 ですから、物語というよりはドキュメンタリー風に作られています。
 私の友人が、テープに取ってきて送ってくれました。ここでは、ウイニーは雌のクマとして描かれています。「プーさん」では雄のクマになっています。
 私は、このコピーを石井桃子さんにお届けしました。さっそく丁寧なお礼状をいただき感激しています。
 石井さんは3月に98歳になられるそうです。いっそうのご健康をお祈りいたします。
 
「A  BEAR  NAMED  WINNIE」    CBCTV   2004年12月放映。
                (2005年1月27日追記)
   **********************************************
                                    
  参考図書
1.クマのプーさん全集  岩波書店 ¥7600
    Winnie-the-Pooh A.A.Milne    ISBN 0-7710-5891-8
    The house At Pooh Corner A.A.Milne   ISBN 0-7710-5892-6
2.カナダの記念切手についていた小雑誌
3.ウオルト・ディズニーの功罪   八島光子訳
  Walt Disney Accused      Frances Sayers (1965)
  「世界」1967年2月号に掲載されたものを、「母親文庫」として出版された。 
   子ども文庫の会。 電話(03- 3403- 0841)
4.ミルン自伝   原昌、梅沢時子訳 研究社
     Autobiography     A. A. Milne 1939
5.クマのプーさんと魔法の森  クリストファー・ロビン 
          石井桃子訳 岩波書店
   Enchanted Places     Christopher Robin Milne 1974
6.ドナルド・ダックの世界像 ―ディズニーにみるアメリカの夢
                   小野耕世 中公新書

                         以上     

 ○ 100歳を迎えた石井桃子さん

   2007年3月10日に石井桃子さんは満100歳になりました。おめでたいことです。


  朝日新聞「人」欄に短い紹介が載りました。 (2007年4月1日)
  「普通の日と同じ気持ちで迎えました。私、何歳といったらいいの? 101歳? なんて人に聞いたりして」とほほえまれたそうです。
  石井桃子さん、いつまでもお元気で!

                                2007年4月15日記

                                                               



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